2005.9. 11.の説教より

「 足を洗う主 」
マタイによる福音書 ヨハネによる福音書 13章1−7節

 このところは、言うまでもなく、イエス様が弟子たちの足を洗われたことが記されている聖書の箇所となりますが、このところで、まず、目に付きますのは、1節ですが、「過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」との言葉となるのではないでしょうか。なぜなら、そこでは、この出来事が、過越の祭の前で起こってこと、しかも、イエス様が、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟られた」まさに、その時に、イエス様によってなされたこと、しかも、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」ゆえになされたことであることが語られているからです。正直、この共同訳聖書の訳よりも、口語訳聖書の訳のほうがその意味を伝えているのではないかと思っています。なぜなら、口語訳聖書では、「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。」「彼らを最後まで愛し通された」とあるからです。「最後まで愛し通された」とは、言うまでもなく、最後の最後まで愛されたということだからです。どのようなことがあっても、最後の最後まで、少しも変わることなく愛された、愛される、愛してくださるということ以上に、私たちにとって、心強いことはないのではないでしょうか。ただ、「愛」という言葉が、私たちの間ではあまりにも中身のないものとして使われていることが多いものですから、私たちが、この言葉から受ける印象と言いますのは、あまり良いものとはなっていないのではないかと思われますので、少し言葉を代えて言いますと、こういうふうに言うことができるかもしれません。イエス様は、私たちがどのような者であっても、さまざまな問題点や弱さを引きずりながらしか生きることができなくても、私たちのことをしっかり受け止めてくださる、受け入れてくださる、それも、最後の最後までそうしてくださるとです。実際、そうでなければ、私たちには、望みも励ましもないということになるのではないでしょうか。なぜなら、私たちは、さまざまな問題点や弱さを引きずるようにしてしか、生きることがてせきないからです。
 そうした私たちのことを、イエス様が最後まで愛し通されたのは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことをイエス様が悟られたゆえだというわけです。言うなれば、もう弟子たちとはそのお身体のままでは一緒に居ることができない時が近づいていることを思って、それまで以上に弟子たちのこと思われた、弟子たちへの思いを深くされたということではないでしょうか。弟子たちのこれからのことを思ってです。実際、この後、弟子たちの多くは、ほんとうに困難な状況に立たされることになるわけです。弟子たちの中で、中心的な存在であったペトロなどは、伝説によれば、イエス様と同じ十字架で処刑されるのは、自分には相応しくないという理由で、逆さまに十字架につけられて処刑されたと言われています。そのように、大なり小なり弟子たちはこの後、ほんとうに困難な状況へと追いやられて行くことになるわけです。そうした弟子たちのこれからのことを思って、なおさら弟子たちのことを思われた、思いを深くされたということがあったのかもしれません。私たちでも、これから後、自分の愛する者たちが、たいへん困難な状況へと追いやられて行くことが分かっているのに、何もしてあげることができない状況になってしまったとするならば、身を裂かれるような思いになることはあるのではないかと思われますが、イエス様の場合は、私たち以上に、これから後のことをもハッキリと分かっておられる方となりますので、私たち以上に、弟子たちのことを思って身を裂かれるような思いを抱かれたのではないかと思われるのです。それが、「弟子たちを最後まで愛し通された」ということの中身だったかもしれません。
 そうしたイエス様の弟子たちへの思いが、続く、イエス様の弟子たちの足を洗うという行為となってあらわれたのかもしれません。今、弟子たちのために、イエス様ご自身としてすることができることとしてです。3節以下となりますが、そこでも、「父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、−−一部省略−−たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」とあります。その聖書の記し方からしますと、「御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り」ということなどは、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟られ」とある言葉とほぼ同じ内容となりますので、それに続く、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」という言葉に対応するものとして、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、−−一部省略−−たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」ということが語られているのではないかと考えられるのです。つまり、イエス様が「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」ゆえの行動として、イエス様は弟子たちの足を洗われたのではないかということです。
 それで、イエス様は、4節以下となりますが、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」とありますように、僕や奴隷たちが足を洗う時のように、イエス様が弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふいたというわけです。少し想像を膨らませて、言いますと、当時の履物と言えば、サンダルのようなものだったと言われていますので、そのような履物を履いて、今の時代のように舗装されていない砂埃の多い道を歩いて旅をすることになるのですから、足は相当汚れていたのではないかと思われます。それこそ、たらいの水であらったぐらいでは簡単に汚れが落ちないほどにです。腰にまとった手ぬぐいも相当汚れたのではないでしょうか。そうしたことを考えますとき、この仕事が、僕や奴隷の人たちの仕事になっていたというのも、何か分かるような気もするわけです。臭いし、汚いしということになるからです。そうした、まさに、僕や奴隷の人たちがするような仕事を弟子たちにされることで、弟子たちにご自身がどのような関わりを持とうとしてきた、実際、もってきたかを示そうとされたのかもしれません。また、そうだからこそ、7節ですが、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」と言われたのではないでしょうか。もし、単に、イエス様が、弟子たちの足をも洗われる、へりくだった方であることを示されただけだったとしたら、後にならなければ分からない内容とはならないからです。後で、と言いますのは、あくまでも、イエス様が私たちの罪のために十字架の上で死なれ、三日目に甦られたことを通してと考えられますので、私たちにとって、イエス様というお方はどういうお方であったかという、私たちにとってのイエス様の本質を抜きにしては、弟子たちの足をイエス様が洗われたということの意味は、どこまでも理解できないのではないかと思われるのです。つまり、イエス様は、弟子たちの足を洗われることを通して、仕えられるためではなく、むしろ、私たちに仕える僕のようなものとして、奴隷のようなものとして、私たちに仕えられるために来たことを、それも、父なる神様の許から来られたことを示そうとしているのではないかと考えられるのです。それが、弟子たちの足をイエス様が洗われるということの意味なわけです。私たちに仕える僕としてのイエス様ということです。その僕としてのあり方の頂点とも言えることが、わたしたちの罪のために、十字架にかかって死なれたということであり、その十字架上の死を神様が受け入れてくださり、私たちが、その罪深さにもかかわらず、罪赦された者として神様の御前にあることができるものとされたことが、イエス様の甦りによって明らかになったのではないか、というふうにも考えられるわけです。